リベンジ
2007年 08月 10日
次回、是非ともリベンジさせてください。という言い方を、僕はあまり好きになれない。
いや、中途半端なのではっきり言う、嫌いだ。そんな些細な言葉のあやで好き嫌いするなよと、自分に向かって小言も言いたくなるが仕方ない、これ性分・・・。 だってそんな言い方は勝負事に対してあんまり不誠実ではないか、言外には次の機会がさも当然のように約束されているかのような言い方だし、例えば素人ゴルフで敢えて表現するならば、3ホール目のフェアウエイからの二打目でもとりあえず打とうかといった風情ではないか・・・つまり後が数十回あるような・・・リベンジとは尤も柔らかくても雪辱であろう、更にはあだ討ちだ。仇を討てなかった時には次は無いのだ、文字通り返り討ちされて嘲笑され、嬲られる。善悪や根性の類が入りこむ隙が無い、それゆえ果たしたときに最大の賞賛を得るのでしょうが。。。
そんな理由から、次回、是非ガイドさせてください。という言い方も僕は嫌いだ。更に思うようなガイドが出来ないばかりに、次回是非リベンジ、なんていうのは噴飯ものだ。こんな事をいう人は、海に向かってそれこそリベンジを試みるがいいと思う。どうぞ、海に仇を討てばいい、あるいはゲストに・・・乱暴に言ってしまいましたがこういうことではないですか、皆が云ってることって・・・
話は戻ってそんな言い方って、ゲストが次回、当然のようにリピートしてくれるかのような安心感が多分に漂っているように感じるし、幸運にも再びお会いした時に、自分が海を案内出来るというその自信は何処から来るのか。大体もしそう思うならば何故今回、ガイドしなかったのか。
あがいて悩んで、そして自分の精一杯をせねばならない時があって、そういう人がいる。それゆえ僕は今日、この人と潜りたい、どうしても・・・でも実際にはそれは残念ながら叶わないことの方が遥かに多いし、更にその数少ないチャンスを掴んで潜ったガイドの大半は負け戦となる・・・これが現実。がっかりされる、そして自分も。そしてこの時に、次、なんてあるわけない。僕達は一人でガイドをしているわけではないから自分だけではない、幾多の同僚の負け戦をも同様に、毎日のように見続ける。
だから奇跡のように自分にその機会がやってこようとしているなら、それは見逃してはならないし、その一期一会のを掴み取ろうとあがきたい。そんな寛容さと幸運があることを祈り、そして備えるしか出来ない。その時に、次回、是非・・・こんなコトバは要らない、必要ない。
だって・・・
好きなときに、好きな人と、好きな場所で、好きなだけ潜れたら・・・
こんなことが度々叶ってしまったら、負けない代わりに勝利の歓喜も決して受け取れなくなる。ここにガイドのプライドはありません。それなら僕は千本でも負け続けて、針の穴ほどの隙間からでも機会を待つ、そしてそれを決して逃しはしない、と思っていたいのです。それが結果的に好きな人と、好きな場所で潜る事となろうとも、その違いは言葉では語りつくせぬほどに大きいのではないかと思うのです。
僕はこうなりたい、でも弱いからなかなか出来ない。しかしそれは言い訳だ、嫌いなリベンジと全く同じだ、少なくとも勝負に必要な言葉ではない。それは忘れないでおこうと思っています。
原爆のような夕焼けを見続ける。
ふと・・・しばしTAROを想う。
今年も終戦記念日が来る
終戦記念日・・・この日はどんな日?戦争が終わった日?負けた日?どう捉えているのか?単なる記念日になっているように思うのだが・・・どうして戦争が起こったか知らないで終わった日に、式典開いてもしょうがないと思うのだが・・・暴言ととられるかも知れないが・・・。
でもそういうことだろ? オイ!? ってのを自分に向かって物申すしたい気分だっただけです、これBLOGの特権ですよ、ね?
8/15についてはhamaさんの言うとおりだと思います。起こった原因は星の数ほどあるでしょう、それを今きちんと話すべきです、皆が。だから暴言などありえないですよ。
更にいえばいまの終戦記念日は、いじめを繰り返し、許し、見ぬ振りをし、存在そのものを無理やり消し去り(いじめは無かったと認識している・・・とかね。)、そして死者が出たその日をいじめ撲滅の日に制定する学校とどれだけ変わりがありますか。
もっといえば、軍事的に究極的に重要でない地域、たとえば福島県の山岳地帯の市町村とか・・・そこの村役場前に、核持ち込み反対、非戦宣言村! と大書きの看板立てるのと変わらん、宣言すれば、記念日にすればいいってもんじゃないよ。
「私は運転しないから・・・・」と答えた人の家に荷物を届ける宅配は、
道路を使わずにやって来る訳ではありませんね。
受益者負担、
届いた荷物の送料には輸送車のガソリン税も含まれているはずです。
少し括りを大きくして考えてみると、
見え方が違って来るかも知れません。
大きな視点で見れば、
福島の寒村に掲げられた看板も平和に対するメッセージなのでは。
我が地域は軍事的に重要でないから戦争に関しては無関心・・・・
それはちょっと違う気がします。
ああした看板には、自分達の属するもっと大きな括りに根ざした
意思が込められているのではないでしょうか。
沈黙してしまうことはとても恐ろしいことです。
うぅぅぅーむ・・・・。
おっしゃるとおり、それもまたごもっとも。
その視点が自分にはとんと欠けていたようです、
だからこんな面白い話しが出来るのですが。ありがとうございます。
幾多の○○バンドに繋がる議論ですね。
それでもなお言いたいのは、例えばパタゴニアを纏う人間が、
普通の人間より、こういう言い方御幣がありますが、平均的
人間より環境に負荷を与えない人間かといったら必ずしも
そうではないわけで、これはトヨタのプリウスでも同様の論理と
なりましょう。看板との圧倒的な違いは我が肌との近さでしょう。
ゆえに前出の看板には、メッセージと共になにか対岸の火事を見るような一抹の責任感の無さを感じるのかもしれません。
あぁ、確かにそう云う希薄さは感じます。
モノは違えど「県外車 事故多し」看板みたいな。
外側へ向かって説諭するのではなく、
自分達の方を向いている満足感がきな臭いのかな。
結局は各個が自己満の範囲で回っている。
君の云うとおり、パタやプリウス、○○バンドも
分かり易さ、我が肌との近さが快感なのかも知れませんね。
それこそ大きな括りで見てどうなのかと・・・・。
結局は自分を追い込まない範囲で寸止めをする。
だから LOHAS なんて逃げ口上が流行する現状に
自分がイラついていることに改めて気づきました。
牽強付会なキャッチフレーズ・・・
でも、それでもやらないよかマシ。
と云う評価もあると思うのです。
胡散臭かったり薄っぺらくても、黙っているよかマシかなと。
“愛が地球を救う”なんて誰も思ってなくても、ね。
考え方は多様で、一点に収束はしないけれど、、
いろいろ頭の中を掻き回せてなかなか面白かった。
お付き合い頂きどうもありがとう。