何故僕たちはトゥヌバラに行くのか?
2006年 06月 28日
さて、実はここに行くのは楽しいのではあるが、少し・・・いや、正直に言ってしまおう、躊躇する気持ちもかなりある、行きたい気持ちと行きたくない気持ちがこの島のガイドであれば、常に心の中でせめぎ合うポイントなのだ。大体見るからにして凄味もあり、私達を威圧している・・・。そんな風に島のガイドに思わせてしまうビッグポイントは島にひとつあれば本当に幸せなくらいで、そうそうあるものではない。そしてそれはこの巨石の威風だったり、ダイビングを催行する上で危険が高すぎる、という理由ではなく、実は最大の理由は潮がどう流れるのか、行ってみないことには決してわからず、そして時期、流れを問わず何が出てくれるのか、前もって期待が出来ないという困った事実に依る。そんな事じゃ大物狙いのポイントとして成立しないだろ、とおっしゃる方もいらっしゃるが、いやはや全く持ってその通りで、僕からするとそんな方向で期待されても困っちゃう、なんというか・・・・思い通りにならないトコなんである。
ドリフトして流れに身を任せれば、ものの数分であたり一面ブルーウォーターになってしまうからさして意味無いし、ナポレオンが常に寄ってくるわけもない、あるときは透明度がガタ落ちし、年によってはギンガメアジの群れは弾丸のような速さで視界から数秒で消え去り、潮が当たらない場所はなんら他の外海と変わらない。冬場のハンマーが見たければ、かなり高度なコース取りを強いられる。とにかく楽に根で待つこと数分、遥か蒼く澄み渡った沖から巨大なイソマグロの編隊があらわれ、あるいはマンタが・・・的なタナボタ風ダイビングとは最も遠いダイビングプランを、ガイドとゲストが互いに尊重しあって実行しないと、多くの場合いわゆる「何も出なかった」一本となってしまう、いつまでたっても都合が良く事が運んでくれない場所なのだ。でもいつ何時でも何かが出る事が、どれほど有難く、そしてモチベーションを下げるか考えてみると、まぁこんな風に優柔不断なポイントでいてくれた方が幸せなのかもしれない。そうそう、話はすこしずれて、何も出なかったと、エキジット後に悲しんでしまうダイバーは、実はその根本原因のかなりの部分を自分が担っている可能性があるとは気づいていないことが多いように私には思える。何故ならその何か、を眼の前に出すことは、バディやガイドのサポートを受け、自分で成すしかない性質のもののはずだ。もしかしたらそれはガイドか周りのダイバーの誰かがする事と思っているのだろうか。そうだとすると、正直かなり残念に思うのだが、この巨石は真っ正直である、この類の人々にだけは、きままに贈り物をくれるとか全然期待できないのは、私自身が数百本此処で潜って嫌というほど味わってきた。そしてこれについてダイビングの経験は全く関係ない、本当の事だ。
実は話はずれているようでいて、話の核心へと進んでいる。ガイドが行きたくないと微かに思うその原因、何も出なかった、ただ泳いだだけだったとコメントを残すダイバー達の心理・・・それについて少し考えていると、それこそが今のダイビング業界が抱える大きな負の遺産のひとつである可能性に気づくのだ。私達ガイドは何故、此処へ赴くときに緊張し、期待し、恐怖するのか・・・何もかもがあてに出来ない、どうなっているかわからず、水中で何が起き、何が出るのかどうにも予想が出来ない、その様な場所で何を見せ、どのように潜るのか。そう、フィッシュウォッチングやガイディング、私達ガイドが持つ数少ない存在意義を根本からぶち壊されてしまうからこそ怖いのではないか。それを自分達ときたら、未だに海に絶対は無いからなどという曖昧な言葉で片付け、やりすごしてるのでは? 実際ここに行く時はすべてを強く、そして緻密にイメージせねばならない。そしてそんなものは時として数分後の水中でいとも簡単に崩れ去ってしまう。でも海に入る皆がそう強くイメージし続ける事が重要なのだ。なぜなら此処ではガイドが他のダイバーに対して成せる事が、先の理由のとおり、物理的な結果(○○が出た・・・等)においては非常に希薄にならざるを得ないからだ。故に全員がこの緻密なゲイムの製作に参加しなければ、成功は難しい。基本に忠実でありながら、各所のディテイルが豊かに描きこまれていなくてはならない。そしてそれは状況に応じて刻々と変化し、修正を求められる、各個人の肉体的な負荷も常にモニタリングしなくてはいけない。非常に手の込んだ優秀なゲームだ。何よりそれは僕達生身の人間が、生存し難い水中において行うというおまけ付きであり、どのような素晴らしい成果を挙げたとしても、全員が全くの無事(無傷)で生還しなくては意味が無いという困難さ・・・ストーリーの難易度において、お膳立ては充分過ぎるくらいだろう。さて、ではそれをダイバー皆が実行したらどうか? 何も無かったなど、誰一人として言うはずがないでしょう? ダイビングの本来的な快楽は、今、自分達が遠ざけがちな、まさにそこにあったはずである。この巨石はその愉悦、その根の部分の獲得を、潜る人間に対して常に高いレベルで強いてくるが故に、今でも自分達を奮い立たせ、恐怖させ続けるのだろう。更にそのようにイマジネーションを保ち続けた人々には、素晴らしい贈り物をくれるのだ。この場所は基本を愚直に守り続けるダイバーに対してこそ、経験に関係なく面白く、優しい。
ところでこれにはオチがある。これも数年前に気がついたのだが、そこまでしても、トゥヌバラからの贈り物はあくまでも、【たまに】なのであった・・・なんとも面白く、素敵にウイットに富んだポイントではないだろうか。そして皆さんも機会があったらこの複雑であまり勝ち目のないゲイムに是非参加して欲しい。もっともこれは、何時、何処であろうと出来ることであったりもする。だからスクーバダイビングはこんなにも面白いのではないでしょうか。
伊豆なんかで朝一潜ってあがると必ず聞かれる「何かいた?」・・・そんなときオイラは魚とかいたよって答える、すると「はぁ?」ってかんじの反応が返ってくる・・・うぅ~ん・・だったら、イザリウオはいましたか?とか固有名をだしてきけよ!何かってきかれてお前のいう何かを分るほどの超能力を持っていたら他の仕事してるぜ!って感じだ~!何が起こるか、どんな風景が、期待と努力と運が決める!それが海!
ところがあまり言いたいことが変わっていないところがなんともトンバラの素敵なところだと、自分で書いていて高揚してました。
幸いトンバラで「何も見れなかった」とか思ったことは一度もないな。ま、大した本数潜ってないけど。
ちなみに西崎では2回「何も見れなかった」経験あり。いや、アカモンガラは見たけど(笑)